*アンコール遺跡群共通チケット

  • 1日券 US$37
  • 3日券 US$62
  • 7日券 US$72

アンコールワット、アンコールトム、タプローム、バンテアイスレイ、クバールスピアンなどの遺跡群をご見学可能です。

全てのチケットは現金でもクレジットカードでも購入して頂きます。

全てのチケットの料金の中からカンボジア政府がUS$2を、無料で治療を受けられる小児病院に寄付いたします。


*アンコール遺跡群の以外のチケット

  • プリアヴィヒア US$10
  • コーケー US$10
  • サムボープレイクック US$10
  • プノンクーレン US$20
  • バンテアイチュマール US$5

*その他

  • アンコールバルーン US$10/ 1名様
  • プリアヴィヒア登山用のタクシー US$/ 1台
  • プリアヴィヒア登山用のバイクタクシー US$/ 1台
  • プノンクーレンのスラードムライまでのバイクタクシー US$10/ 1台
  • プノンクーレンのプンタバル遺跡までUS$15 /1台

2020年1月1日より

  • バイヨン寺院は修復工事のため、寺院の上までは入場禁止となっております。
  • 象で商売してはいけないという政府の命令でアンコールトムの南大門とバイヨン寺院とプノンバケンなどの象乗り場には象がいなくなっております。
  • アンコール遺跡共通チケットでもベンメリアに入場が可能です。

カンボジアについて

正式国名:カンボジア王国
面積:181 035平方キロメートル
人口:1600万人(カンボジア人90%以上、そのほかベトナム人、中国人、チャム人、少数民族)
国家元首:ノロドム .シハモ二国王
首相:フン.セン(1993年~現在)
言語:クメール語
宗教:上座仏教95%、イスラム2%、キリスト教2%です。
気候:熱帯モンスーン気候、季節は5月から10月までは雨季で11月から4月までは乾季です。平均温度29度です。
教育制度:日本と同じ小6年、中3年、高校3年です。
時差:日本と2時間の時差があって日本より2時間遅いです。
電圧:220V(ボルト)日本の電化製品利用するには変圧器が必要です。コンセント形式は様々ですが日本と同じ「A」タイプと「C」タイプが主流です。
通貨、両替:現地通貨はリェルですが、観光地ではUS$流通率が高いです。

ビザ:日本もしくはカンボジア空港に到着してからでも申請できます。シェムリアップ空港で申請の場合、到着ロビーに入ってすぐ右側にビザカウンターがあります。申請書を記入して、顔写真とパスポートを一緒に提出します。現金を支払いビザが貼り付けられたパスポートが渡されるまでお待ちください。

*観光ビザ:US$30
*商業ビザ:US$35

世界遺産

アンコールワット

9世紀初めから約600年に渡ってのクメール大帝国の時代に400平方キロメートルの地域に造られたアンコールワットやアンコールトムなどアンコール遺跡は東南アジア全体に大きな影響を与えたクメール美術の傑作として1992年12月14日にユネスコ文化遺産に登録されました。

プリアヴィヒア

カンボジアとタイの国境近くダンレック山脈の斜面を利用して建てられた山岳のプリアヴィヒア寺院は空中の神殿とも呼ばれています。5つの塔門とそれぞれに施されたレリーフが美しく残り、断崖からカンボジア大地を見下ろす壮大な絶景は感動です。プリアヴィヒア遺跡は2008年7月7日にユネスコ文化遺産に登録されました。

サムボープレイクック

前アンコール時代、つまり6~8世紀頃に建てられた三角形、四角形、円形などの特徴を持つサムボープレイコック遺跡群には291個の寺院が残り、それぞれにたてがみが力強く表現されている獅子像や空飛ぶ宮殿、グリフォンやヘレニズム風顔などの彫刻が彫られ、西方文化と交流を感じさせる遺跡です。サムボープレイコック遺跡は2017年7月8日にユネスコ世界文化遺産に登録されました。

アプサラダンス

アプサラダンスは宮廷舞踊で、昔は王様に見せるためだけの踊りましたが、今あちこちのレストランでも見ることができます。アプサラとは天の舞姫のことで、天の世界から地上の花園へ遊びに来てまた天に帰って行く様子を表しています。アプサラ宮廷舞踊は2003年11月7日ユネスコ無形文化遺産を登録されました。

スバェクトム

スバェクトムはお寺の境内などに白い大きな幕を張ってスクリーンにし、そしてココナッツの殻を燃やし明かりに映します。影絵や人形を持ってスクリーンにし、ラマヤナ物語や民話などの内容に合わせて操作します。人形は本当に空を飛んだり、歩いたりするように見せるために操作する人も上手に踊ります。スバェクトムは2005年11月25日ユネスコ無形文化遺産に登録されました。

歴史

アンコール時代

アンコール都は初めシェムリアップから東13キロのロリュオスと呼ばれる地方にありました。けれどもヤシュバルマン1世という王様がシェムリアップに遷都しました。それからおよそ5世紀にわたってクメール帝国の代々の王様が次々にたくさん神殿をこの周辺に建てました。都はジャヤバルマン4世の時代にしばらくの間シェムリアップの北東160キロのコーケーという所に移りましたが、すぐ戻りました。日本の平安時代の後半の頃は王族同士の争いが続いて国の中が乱れましたが、スーリヤバルマン2世が国を統一してアンコールワットを建立しました。その後半後はクメール帝国が最も栄えたジャヤバルマン7世の時代です。ジャヤバルマン7世は同時よく戦争していた隣のチャンパ王国を併合して大帝国を築き上げました。ところでアンコール時代の王国は大体ヒンスー教徒でしたが、ジャヤバルマン7世は大乗仏教を深く信仰していました。ですからジャヤバルマン7世が建てた寺院には観世菩薩の彫刻が見られます。その顔は4面ありますが、みんなわずかに微笑んでいて「クメール微笑」と呼ばれて慈悲、憐れみ、情け、平等が表れています。観音様と同じように慈悲深い王様は「国民の痛みを自分の痛みのように感じた」と言われています。それで、道路を整備して街道沿いに121箇所の宿泊所を作って、102の診療所を建てたと言われています。


アンコール陥落時代

大きくなったクメール帝国に元のフビライの使者の周多観という中国人が1年間滞在して「真臘風土記」という見聞録を書きました。それを読めば当時の宮殿や人々の生活の様子がよく分かります。真臘風土記によると、バイヨンなどの神殿や王宮などは黄金で輝いていたそうです。けどれもクメール帝国は度重なる遠征や寺院などの建築で段々国力が衰退して行きました。日本の室町時代に当たる14世紀の半ばにシャムがアユタイヤ王朝を開いて1353年と1394年の2回、アンコールの都を侵略に来ました。そしてとうとう1431年にアンコールの都は攻め落とされてしまいました。それで、当時の国王はアンコールを放棄してプノンペンに遷都しました。それ以来、何百年もの間にたくさんの寺院が忘れられて密林に埋もれていました。けれどもアンコールワットだけはその後ヒンズー教寺院から仏教寺院に改宗されて地元の人によって守られて来ました。クメール帝国が衰退した原因に病気も関係があると言われています。当時最も恐ろしがられた流行病にハンセン(氏)病があります。この病気で大勢の国民が苦しんだのかもしれません。バイヨン寺院の彫刻にもハンセン(氏)病にかかった王様を看病している様子が描かれています。他にアンコールの都はずっと三百年にもわたって農地が段々やせて農業がうまくできなかったり、植物で調査した結果による当時何年間も続いて干ばつが起こり農業ができなかったりして水の豊かな所に遷都したという説もあります。


フランス植民地時代

国がなくなりそうになったので、国王はそのごろインドシナ半島に進出していたフランスに保護を求めました。それで1863年、日本ではつま江戸時代の終わりごろ、ノロドム国王はフランスと保護協定を結びました。この協定の内容は厳しいものではありませんでした。それで、次の年からノロドム国王は反乱を抑えたり、奴隷を解放したりしました。そして3年後に都をプノンペンに作り直しフランスの保護を受けながら国は段々発展しました。1860年にフランスの植物学者であるアンリムーオがアンコールワットを再発見してフランスで発表したので、カンボジアに古い遺跡に関心を持つフランス人も訪れました。20年ほどは平和でしたが、フランスは1884年に厳しい内容を新保護条約を押し付けました。それから1953年までカンボジアは完全にフランスの植民地になってしまいました。フランスのお陰でベトナム、シャムの侵略からは守れ、シャムに取られた領土を一部は取り戻すことができました。しかしフランスはクメールの宝物などをずいぶん持ち去ってしまいました。世界大戦の影響もあって、フランスは段々重い税金をかけるようになったので、カンボジア人はとても苦しみました。第二次世界大戦中の1941年に19歳でシアヌーク国王が即位しました。1945年3月に日本軍がカンボジアに入ってフランスを追い出したので、シアヌーク国王はカンボジアの独立を宣言しましたが、日本が連合軍に降伏したので、フランスが戻ってきてしまいました。


シアヌーク.ロンノル時代

フランスはカンボジアを再び植民地にしようとしましたが、シアヌーク国王は非暴力で戦いを続けました。色々な国を訪問して、世界に訴えかけたり何度もフランスと交渉をしたのです。そして1953年、ついにカンボジアを独立に導きました。シアヌーク国王はその2年後、王位を父であるスラマムリット殿下に譲って自分は人民社会主義共同体の総裁となって政権をとりました。その共同体の政治理念はまず、外国との関係については中立の立場をとりました。そのころ世界は東側と西側に分かれていましたが、そのどちらにも属しないことにしました。次に国内ではカンボジアの伝統の王制と仏教を重んじました。国造りはどんどん進められて、このころのプノンペンは上水道も下水道もきちんと整備されていました。本当に美しい町でした。けれども平和な時代は15年しか続きませんでした。1970年にアメリカの支援を受けたロン.ノルという将軍がクーデターを起こしてシアヌークを解任してしまいます。それでカンボジアはベトナム戦争に巻き込まれてしまいました。ところが、ひどい汚職の政治のために国の中が乱れて、ロン.ノル政治は5年間しか続きませんでした。1975年4月にクメール.ルージュ、つまり赤いクメールという反政府組織によってロン.ノルは倒れました。カンボジア人は大喜びでした。


ポル.ポト政権

クメール.ルージュの指導者はポル.ポトと言います。ポル.ポトは侠気の共産主義者でした。ポル.ポト時代約3年8ヶ月もしくは3年間8ヶ月と20日はカンボジアの歴史の中で最も暗い時代です。何百万もの罪のない人々が虐殺されました。ポル.ポトによるカンボジアまたはポル.ポト政権下「壁のない刑務所」だったと言われています。そのごろ肉親の失わなかったカンボジア人はおそらくどこにもいないでしょう。ポル.ポト政権では農業中心のやり方で政治が行われました。プノンペンなどの都市に住んでいた人々は地方の農村に強制移住させられ、プノンペンはゴーストタウンになりました。個人の財産を持つことや政治教育以外の学校教育は禁止され、市場や通過は廃止されました。宗教活動も禁止されて多くのお坊さんが還俗させられました。そして、家族は一緒に住むことは許可されなく「サハコー」という人民公社で集団生活をさせられました。中国人やベトナム人などの外国人は老人も子供も皆殺しでした。医者や教師、芸能人などの知識のある人は共産主義の政策の妨げになるので、厳しい拷問を受けて処刑されました。学校や病院などの建物は肥料置き場や銃弾倉庫や刑務所として使われました。


ポル .ポト政権崩壊後

1979年1月7日日ベトナム軍に支援されたヘン .サムリンはプノンペンを解放しました。この日を記念して今でも1月7日は祝日になっています。ポル.ポトはベトナム軍に追われてタイ国境の山岳地帯に逃げてゲリラ活動を始めました。タイに宝石や木材を密輸して資金を稼いでいました。ヘン.サムリン政権はポルポトによる虐殺政治からカンボジアを救いましたが、ベトナムという外国軍が国家を侵攻したので、国内からも海外からもひどく批判されました。ヘン.サムリン政権に対抗してポル.ポト派とシハアヌーク派とソン.サン派が三派連合政府を発足しました。つまりカンボジアに中国やASEANに支援された三派連合政府とソ連やベトナムに支援されたカンボジア人民共和国という二重の国家があったのです。内戦が続きました。数十万の難民がタイ国境に集まりました。平和のための話し合いはなかなか進みませんでした。


パリ和平協定の締結

1987年の12月にカンボジアの問題を解決するために三派連合政府の代表のシアヌークとヘン.サムリン政権の代表のフン.センが初めてパリで会談をしました。その後はいろいろな場所で平和の実現のために何度も話し合いが続きました。けれどもなかなか内戦を終結させるための合意が成立しませんでした。1991年10月23日についにパリ平和協定が調印されました。この会議には19カ国の代表が参加しました。シアヌークが12年ぶり帰国してカンボジア最高国民評議会、略してSNCが発足しました。そして国連カンボジア暫定統治機構、略してUNTACが誕生してカンボジアには新しい政府を作るための支援活動をしてくれました。UNTACは七つの部門に分かれていました。人権部門、選挙部門、復旧、復興部門などです。2万人以上の人々が平和維持活動、つまりPKOにカンボジアへ来ました。日本の自衛隊からもたくさんの方が道路や橋を直しに来て下さいました。UNTACが活動している間はラジオ局ができたり、難民が自由に帰還できたり外国からいろいろな物が入ったり社会が大きく変わりました。